デフリンピックという国際舞台で、聴覚障害を持つアスリートが長年直面してきた不公平な壁をご存知でしょうか。短距離走のピストル音が聞こえないというだけで、選手は決定的な不利を背負い、人生をかけた努力が阻まれてきました。しかし、あるろう学校教諭や、日本の企業による革新的な技術が、この状況を一変させました。この開発物語は、テクノロジーが多様な人々に平等な機会をもたらす重要な事例です。本記事では、この装置の具体的な仕組みや、教え子の悔し涙を原動力に8年の歳月をかけて製品化を実現した感動の開発秘話を徹底解説します。
デフリンピックの不公平さと「音」の壁 技術で叶えるアスリートの尊厳
デフリンピックは、聴覚に障害を持つアスリートのための国際的な総合スポーツ大会です。参加資格として補聴器などの聴覚補助器具を外した状態で聴力レベルが55デシベル(dB)以上聞こえないことが条件とされています。
これは、選手全員が公平な条件で競技に臨むための厳格なルールです。
スタートの不公平さが生んだ教諭の強い決意
デフ陸上競技の中でも、短距離走のスタートは特に深刻な課題でした。健常者の大会ではスターターの号砲すべてが「音」で行われます。
聞こえない選手は、ピストルの煙や隣の選手の動きを視覚で判断せざるを得ず、音を聴いて反応するスタートに比べ、反応速度に決定的な遅れが生じていました。この状況は、実力以外の理由で選手の努力が報われないことを意味します。
この不公平な状況を目の当たりにしたのが、東京都立中央ろう学校の陸上部顧問、竹見昌久氏です。
前任校の生徒が健常者の大会でスタートに出遅れて泣いている姿を見て、「このままでは絶対に勝てっこない」という悔しさを訴えられたことが、後の光刺激スタート発信装置(通称:スタートランプ)開発の揺るぎない原動力となりました。
これは単なる競技用具の改善ではなく、アスリートの尊厳と平等求める切実な挑戦だったのです。
公的機関である全日本ろうあ連盟は、デフリンピックのスタート合図について、音の代わりに目で見える「視覚保障」を行うことを明記しています。
この「目でわかる合図」を完璧に実現し、選手が音による不利を一切感じることなく競技に集中できる環境を整えることが、開発の最大の目的となりました。
光刺激スタート発信装置の仕組みと役割 0.1秒を争う公平性

「光刺激スタート発信装置」は、従来のピストル音を単に光に変換するだけでなく、聴覚アスリートが最大限のパフォーマンスを発揮するための精密な仕組みを備えています。
この装置は、スターターのピストル音と連動し、スタート合図を光の色の変化によって選手に伝達するシステムです。
聴覚保障を超えた「反応時間の平等」を実現
装置は選手一人ひとりの足元付近、視線に近い場所に設置されます。最も重要な点は、光が音と同時に伝達されるため、聴覚による反応時間との差異を限りなくゼロに近づけていることです。
選手は以下の三段階の色のシグナルによって、公平なタイミングでスタートを切ります。
- 赤: 位置について(On Your Marks)
- 黄色: ようい(Set)
- 緑: 号砲(Bang!)
この仕組みにより、ピストルの光や煙を見るために顔を上げる不利な姿勢を取る必要がなくなり、選手はスタートの瞬間に全力で集中することが可能となります。
この技術的な工夫は、デフアスリートにコンマ一秒を争うスタートラインでの絶対的な公平性を提供します。
さらに、この装置には、フライング発生時に光で制止の合図を伝えるフライング伝達ランプも組み込まれています。
これにより、聞こえない選手がフライングに気づかずに走り続けてしまうという問題を解消し、競技運営の正確性と安全性も大きく向上させています。
国際製品よりも小型で設置の柔軟性が高いという独自の優位性も持っています。
8年にわたる開発物語と情熱の源泉 現場の知恵と企業の協力
光刺激スタート発信装置の誕生は、一人の教師の諦めない情熱と、それを技術で支える企業の社会貢献意識によって実現しました。その開発には、実に8年の歳月が費やされています。
悔し涙から始まったメーカーとの二人三脚
開発の発起人である竹見昌久氏は、生徒の悔し涙をきっかけに「何とかしたい」との一心で、スポーツ機器製造販売を手掛けるニシ・スポーツに開発を提案しました。
竹見氏らは、国内だけでなく海外の国際大会にも自ら出向いて採用を訴え、試作を重ねました。この地道な努力が実を結び、2016年の世界ろう者陸上選手権などで採用され、そして2022年のブラジル大会ではデフリンピックでも初めて使用されるに至りました。
~陸上競技では、ニシ・スポーツが開発・販売する「光刺激スタート発信装置」と呼ばれる機器を使用し、ピストルの引き金と連動して光でスタートのタイミングを知らせています。この装置があることで、選手は足元にあるランプを見てスタートを切ることができ、顔を横に向けた姿勢ではなく、一般的なクラウチングスタートの姿勢と同じ姿勢でスタートを切ることができるようになりました。~
この開発物語は、竹見氏の「ろう学校の教諭」としての経験と専門性が、ニシ・スポーツの持つ技術と結びついた結果、競技現場の深いニーズを満たす、信頼性の高い製品が誕生したことを示しています。
これは、理論だけでなく現場の知恵を製品開発に活かすという、現代のものづくりにおいて極めて優れた事例と言えます。
【ビジネス・普及】光刺激装置が持つ社会的な価値とインクルーシブデザイン

光刺激スタート発信装置の存在は、単なるスポーツ用品の枠を超え、企業が社会に提供できる真の価値と、インクルーシブデザインの重要性を示しています。
CSRとニッチ市場における優位性
ニシ・スポーツは、この装置の開発・提供を通じて、企業の社会的責任(CSR)を果たすとともに、デフスポーツというニッチな市場を確立しました。
現場の声を反映したニシ・スポーツの技術は、高価な海外製品と比較しても、国際的な評価を得ています。
一方で、普及には課題も残っています。ランプが9台入ったフルセットは300万円を超える高価なものであり、導入している自治体はまだ限られています。
これは、デフスポーツという市場規模の限界と、公的資金の活用というビジネス戦略が絡む複雑な問題です。
しかし、この技術は陸上競技だけでなく、バレーボールなどの団体競技で使われる「見えるホイッスル」の開発にも応用されており、その技術的な汎用性を示しています。
この応用展開こそが、初期のコストをかけた投資が、長期的なブランド資産に繋がることを証明しています。企業の技術力を、社会的な課題解決に結びつける成功事例として多くの企業にとって参考になるでしょう。
インクルーシブな未来: デフリンピック東京2025と平等なスタートへの道
2025年11月、第25回夏季デフリンピック競技大会が東京で日本初開催されています。この大会は、光刺激スタート発信装置の普及と、日本のインクルーシブな社会のあり方を世界に示す絶好の機会となります。
健常者と変わらぬ「平等なスタートライン」へ
デフリンピック東京2025では、株式会社ニシ・スポーツがトータルサポートメンバーとして契約を締結し、光刺激スタート発信装置のレンタルおよび運用サポートを通して、競技を支えることが決定しています。
これは、日本発の技術が、世界最高峰のデフスポーツ大会の公平性を支えるという、大きな成果です。
この装置の最も重要な意義は、聴覚障害のある選手が、「これでやっと本当の勝負が始まる」と感じられる、精神的な平等を提供した点です
単に音を光に変えただけでなく、不利な条件がなくなったことで、デフアスリートは自身の努力と才能のみで世界と戦えるようになりました。
今後は、この光刺激スタート発信装置が、全国の障害者スポーツ大会や、聴覚障害を持つ学生が参加する一般の大会でも標準装備として採用され、より多くの選手が平等なスタートラインに立てるようになることが期待されます。
これは、スポーツ界における多様性と公平性の実現に向けた、日本からの重要なメッセージとなるでしょう。
まとめ

デフリンピック競技における「音の壁」を打ち破った光刺激スタート発信装置は、ろう学校教諭の情熱と日本企業の技術力が融合したインクルーシブな技術革新です。
開発には8年を要しましたが、その成果は2025年のデフリンピック東京大会で、日本の技術的貢献として結実します。高価という普及の課題は残るものの、その技術の汎用性と社会的な価値は計り知れません。
デフスポーツの公平性と多様性を支えるこの装置の物語は、技術が「誰一人取り残さない社会」を実現するための希望の光であることを証明しています。
あとがき
竹見先生が教え子の悔し涙を原動力に、8年もの歳月をかけて製品化を実現した根気強い思いに深く感動しました。この光刺激スタート発信装置こそ、デフアスリートが求める「絶対的な公平性」に欠かせない装置だと強く理解しました。
技術が不平等を打ち破る、現代の奇跡です。この画期的な技術で、デフアスリートが健常者の記録を超える将来にも大いに期待しています。日本発の技術が示す、インクルーシブな未来に光がありますように。

コメント