杉村英孝選手:逆境を越え、静寂のコートに刻んだ金色の軌跡

「精密機械」「スギムライジング」等、数々の異名を持つボッチャ界のレジェンド、杉村英孝選手。彼の名は、東京2020パラリンピックでの劇的な金メダル獲得とともに、多くの日本人の心に深く刻まれました。しかし、その輝かしい功績の裏には、想像を絶する困難との闘い、そして弛まぬ努力の日々がありました。本記事では、ボッチャに関する基本的なことから、杉村選手が歩んできた道のりを辿り、私たちに与えてくれる深い感動の大元について迫ります。

ボッチャとは?シンプルながら奥深いゲームの概要

ボッチャは、重度脳性まひ者や四肢重度機能障がい者のために考案された、パラリンピック特有の球技です。白い目標球(ジャックボール)に、赤色または青色のボールをいかに近づけるかを競います。

各チーム6球ずつの持ち球を投げ終えた時点で、ジャックボールに最も近いボールの色がそのチームの得点となります。

ボールは手で投げるだけでなく、足で蹴ったり、脳性麻痺などでボールを投げることが難しい選手は、補助具(ランプ)と介助者(アシスタント)を使って競技を行うことも可能です。

この多様なプレースタイルこそが、ボッチャの大きな特徴であり、戦略の幅を広げる要素となっています。

ボッチャの歴史:ヨーロッパで生まれた戦略的なスポーツ

ボッチャは、ヨーロッパで重度障がい者の為に考案されたようです。その親しみやすさと戦略性の高さから瞬く間に広まり、1988年のソウルパラリンピックで正式競技として採用されました。

 

その後徐々に認知度を高め、2016年のリオデジャネイロパラリンピックでは日本代表が銀メダルを獲得、そして東京2020パラリンピックでは、個人戦で金メダル、ペア・団体戦でも銀と銅メダルを獲得するなど、目覚ましい活躍を見せています。

ボッチャの競技ルール:シンプルながらも緻密な計算が必要

ボッチャの基本的なルールは非常にシンプルです。

コート: 縦12.5m、横6mのコートを使用します。

ボール: 赤色と青色の2チームに分かれ、それぞれ6球持ちます。

ジャックボール: 白色の的球で、先行チームがジャックボールをコート内に投げ入れます。

試合開始: 先攻のチームが1球目のボールを投げ、その後は相手チームが投げます。以降は、ジャックボールに最も近いボールの色と異なるチームが交互に投げます。

投球: ボールは手、足、またはランプを使って投げることができます。ランプを使用する場合、介助者は選手が指示した場所にランプを設置し、ボールを置くまでしか関与できません。

得点: 全てのボールが投げ終わった後、ジャックボールに最も近いボールから順に、相手チームの最も近いボールよりも内側にあるボールの数が得点となります。

エンド: 1試合は通常4エンドまたは6エンドで行われます。

勝敗: 全エンド終了後の合計得点が多いチームが勝利となります。

このシンプルなルールの中に、いかにジャックボールを有利な位置に配置するか、相手のボールを邪魔するか、自分のボールをより近づけるかといった、高度な戦略と技術が凝縮されています。

杉村英孝選手:プロフィール

  • 氏名:杉村 英孝(すぎむら ひでたか)
  • 生年月日:1982年3月1日
  • 出身地:静岡県伊東市
  • 競技:ボッチャ
  • クラス:BC2(脳性まひ)
  • 所属:TOKIOインカラミ(2024年時点)
  • ニックネーム:すぎちゃん

ボッチャとの運命的な出会い

杉村選手は、先天性の脳性まひにより、生まれながらにして手足に障がいを抱えていました。特に、体を動かすことへの憧れはありましたが、できるスポーツは限られていました。

そんな彼に転機が訪れたのは、高校3年生の時。福祉施設の先生から、一枚のビデオを見せられたのです。

それは、重度の障がいを持つ人々が、色とりどりのボールを操り、戦略を駆使して戦う「ボッチャ」という競技の映像でした。

ボールを投げるというシンプルな動作の中に、無限の戦略と奥深さが秘められていることを知り、杉村選手は瞬く間にボッチャの魅力に引き込まれていったようです。

当初は、ボールを正確に投げることすら難しく、悔しい思いを経験したそうです。

しかし、彼は諦めませんでした。それは、自分自身の可能性を信じ、限界を突破しようとする孤独な戦いの始まりでもありました。

努力と成長の軌跡

杉村選手はボッチャに情熱を注ぎ込みました。2009年の日本ボッチャ選手権で3位に入賞し、その才能の片鱗を見せると、翌2010年には念願の日本代表「火ノ玉JAPAN」に選出されます。

しかし、世界の壁は厚く、国際大会では思うような結果が出せない時期も続きました。

それでも、彼の心は折れませんでした。

~「自分は生活上は重度障害者で周囲のサポートを受けている。制限もあり、我慢しないといけないこともある。でもボッチャは誰の手も借りずにすべて自分で選択と決定ができる。自分を表現できる」~

【ボッチャ必殺技 スギムライジング】パリ・パラリンピックで期待の杉村英孝選手に聞いた競技の魅力とは…

その信念が、彼を突き動かしたそうです。

彼の努力は、徐々に実を結び始めます。持ち前の集中力と探求心で、相手の戦略を読む洞察力、そしてミリ単位でボールをコントロールする技術を磨き上げていきました。

特に、目標球であるジャックボールの周囲に密集した相手のボール群の上に、そっと自分のボールを乗せるように投じる「スギムライジング」と呼ばれる得意技は、彼の代名詞となっています。

この技は、絶妙な力加減と寸分の狂いもないコントロールが要求される至難の業であり、彼の血の滲むような努力の結晶と言えるでしょう。

パラリンピックでの栄光と挑戦

杉村選手のパラリンピックへの挑戦は、2012年のロンドン大会から始まりました。団体戦で7位に入賞し、日本ボッチャ団体として初の入賞という歴史を刻みます。

続く2016年のリオデジャネイロ大会では、キャプテンとしてチームを牽引し、団体戦で銀メダルを獲得。

日本ボッチャ界に初のパラリンピックメダルをもたらすという快挙を成し遂げました。しかし、彼の胸には、個人戦でのメダル獲得という強い想いが残っていました。

そして迎えた、自国開催となる東京2020パラリンピック。大きな期待とプレッシャーが彼にのしかかります。個人戦BC2クラスの決勝、相手は強豪タイの選手。

一進一退の攻防が続き、会場は息をのむような緊張感に包まれた中、勝利を確信した彼は静かに、しかし力強く拳を握りしめたそうです。

日本ボッチャ史上初となる個人金メダル。それは、長年の努力と不屈の精神が結実した瞬間であり、日本中に大きな感動の渦を巻き起こしました。

この大会で銅メダルを獲得した団体戦と合わせ、個人・団体両方でのメダル獲得という偉業は、彼の努力の賜物です。

記憶に新しいパリ2024パラリンピックでは、団体戦で銅メダルを獲得。3大会連続でのメダルという金字塔を打ち立て、その実力が健在であることを改めて証明しました。個人戦ではメダル取得とはなりませんでしたが、彼の挑戦はまだ続きます。

プレースタイルと強さの秘密

「精密機械」と称される杉村選手のプレースタイルは、冷静な分析力と、ミリ単位の精度を誇る投球技術に支えられているそうです。

彼の強さのもう一つの源泉は、仲間たちの存在です。「火ノ玉JAPAN」のチームメイトとは、互いに切磋琢磨し、励まし合いながら世界の強豪と渡り合ってきました。

コーチやスタッフ、そして家族の献身的なサポートも、彼の活躍を語る上で欠かせません。多くの人々の想いを背負い、彼はコートに立ち続けているそうです。

日々の仕事を通じて培われるコミュニケーション能力や、相手を思いやる心は、ボッチャの戦略を練る上でも活かされているのかもしれません。

まとめ

杉村英孝選手の軌跡は、まさに逆境を乗り越え、夢を掴み取った感動の物語です。先天性の障がいという大きな壁に立ち向かい、弛まぬ努力と不屈の精神で、ボッチャという競技を通じて自らの可能性を切り拓いてきました。

「火ノ玉JAPAN」のキャプテンとして、そして一人のアスリートとして、杉村選手はこれからも私たちに多くの感動を与え続けてくれるはずです。

彼の静かなる闘志と、一投に込められた想いは、これからも多くの人々の心を打ち、パラスポーツの未来を明るく照らしていくことでしょう。

あとがき

この記事を執筆するにあたり、杉村英孝選手のこれまでの歩みやインタビュー記事などを改めて拝見しました。その中で一貫して感じたのは、彼の持つ「諦めない心」と「感謝の気持ち」、そして「ボッチャへの深い愛情」です。

障がいを乗り越え、世界の頂点に立った彼の姿は、私たちに「人間は何歳からでも、どんな状況からでも挑戦できる」という力強いメッセージを与えてくれます。

この記事を通じて、杉村英孝選手という素晴らしいアスリートの魅力が、少しでも多くの方に伝われば嬉しいです。

そして、この記事がきっかけとなり、読者の皆さんが新しいことに挑戦してみようと思えるきっかけになればと思います。ボッチャという競技、そしてパラスポーツ全体が、これからますます広がり発展していくことを願っています。

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